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社長からの手紙


株式会社ノースライフ 社長からの手紙 



 ノースライフのキャンピングカーには、
 私の願いと、人生をかけたテーマが託されています




はじめまして、ノースライフ社長の溝渕 邦夫です。
このページを訪問してくださり、ありがとうございます。

ノースライフは、おかげさまで今年で設立22年目を迎えます。現在、弊社はキャンピングカーメーカーとして事業展開しておりますが、キャンピングカーの自社生産をスタートさせたのはほんの6年ほど前のことです。
会社設立当初(1986年)は普通車の販売をしておりました。それと並行して、福祉車両の製造販売を行うことで、技術を蓄積し、1992年からキャンピングカーの取扱を始めました。ただし、その頃は英国からの輸入販売でした。

自社でキャンピングカーを作るようになった理由、それは、普通車の販売でも、キャンピングカーの輸入販売でも、納得できなかったことがあるからです。

私はこれまで、弊社の社員さんに対してはその思いを幾度となく伝えてきました。
私たちがキャンピングカーを通して提案することとは何か、そして、私たちが自ら作るべきキャンピングカーとはどんなものか…。
溝渕 邦夫
しかし、ふと、お客様には何もお伝えしていないことに気づいたのです。

このページに来てくださった方は、キャンピングカーに興味をお持ちかと存じます。
長い手紙にはなりますが、ノースライフと私がこれまで歩んできた、キャンピングカーにまつわる物語をお読みいただければ幸いです。

そして、私たちが提案する、キャンピングカーで得られる喜び、人として豊かな時間づくりに少しでも共感していたただければうれしい限りです。

株式会社ノースライフ 溝渕 邦夫


 




目次

キャンピングカーでなければならない2つの理由

ひとりの寂しさから知った「家族との時間の大切さ」  【幼少期~学生時代】

自分にしかできないことをやる、それが私の使命  【就職~創業まで】

自分にしかできないことを見つける   【キャンピングカーのメーカーとして】

ノースライフのキャンピングカーはここが違う  【ノースライフの挑戦】

ノースライフは何を売るのか



















■キャンピングカーでなければならない2つの理由 

●キャンピングカーの誤解
なぜ、ノースライフがキャンピングカーを自社生産して販売するようになったのか、そのお話をする前に、キャンピングカーへの3つの誤解について話をさせてください。溝渕 邦夫
キャンピングカーはまだまだ日本では普及率の低い乗り物です。それは、日本におけるこの3つの誤解が原因かもしれません。

まず、1つめの誤解は、キャンピングカーはキャンプをするための車だということです。
「私はキャンプはしないから、キャンピングカーはいらないよ」という声を耳にします。
でも少し考えていただくとおわかりになるはずです。
キャンプをするために、キャンピングカーは必要ないのです。テントで寝るならキャンピングカーは必要ありませんよね。
つまり、第一の誤解は、キャンピングカーの目的です。

2つめは、「キャンピングカー」は高価で、「金持ちの持つ贅沢品」という誤解です。
また少し考えてみてください。
金持ちなら、リゾートホテルに泊まればよいのです。
何も、わざわざ自分たちで食事の支度をしたり、片付けをしたりする必要はありません。
キャンピングカーは金持ちのための車だというのは誤解です。

そして、3つめは、キャンピングカーは大きい、という誤解です。確かに、お風呂が付いているような大型のキャンピングカーはアメリカには存在します。でも、日本では道が狭いので、そんな車では走れませんし、コンビニにも停められません。車庫入れを心配される方も多いのですが、一番小さなバンタイプのキャンピングカーなら、問題ありません。通勤にも使えます。
そんなに馬鹿でかい車ではないのです。

●キャンピングカーは、安く家族旅行をするための道具
それでは、キャンピングカーはどんな乗り物なのか。
キャンピングカーは、お金持ちの贅沢品ではありません。
それほどお金持ちではない人が、安く家族旅行をするための道具です。
確かに購入費用はかかりますが、旅行が好きな方なら、毎回ホテルに泊まるよりも格段に経済的であることがおわかりいただけるはずです。

●私自身が体験した、キャンピングカーの楽しみ
今から30年近く前、私の子どもがまだ小さかった頃、私はまだキャンピングカーの存在を知りませんでした。当時、まだ日本ではキャンピングカーはほとんど知られていなかったのです。

家族で安く旅行をしたかった私は、ボロい車を買ってきて、キャンピングカーのようなものに改造しました。子どもと一緒に遊べる時間は短いので、旅をすることでたくさんの時間を共有したかったのです。

当時は、春から秋にかけて毎週末のように出かけていました。週末に自宅で寝るのは月に1、2度くらいだったでしょうか。
アドベンチャーファミリーのようなものです。

一番楽しかったのは、「お父さんは学生時代にどこにいたの?」と聞かれ、大学時代に住んでいた青森県へ連れて行ったことです。津軽平野の岩木山に登りました。そこは7月まで雪が残っているので、頂上のほうでスキーを楽しんだことが最高の思い出です。

キャンピングカーでの旅とは、決して贅沢をするということではないのです。
例えば、夕方まできれいな景色を見て、そのあとどこかへ行くのが面倒なときは「ご飯でも炊くか」ということになります。
食事は意外と貧乏くさいんですよ。バーベキューなんて毎日やったら飽きますから。
今日は納豆ご飯と目玉焼きでいいか、なんて日もあります。
海を見ながら納豆ご飯を食べていたら、知らない人に「キャンプに来て納豆ご飯ですか?」などと聞かれたこともありました。
ちょっと貧乏くさい食事ですが、精神的には豊かなんです。
子どもたちとは本気で遊び、共通体験をしました。考えてみると、親子げんかはあっても、子どもたちとの断絶はありません。旅をすることで、私たち家族には強い心の絆が生まれたと実感しています。

●キャンピングカーでなければならない1つめの理由
  "人とつながっていること"
子どもはあっという間に成長していきます。
家族で旅行ができる時間はとても短いのです。
キャンピングカーを使って家族で旅することの楽しさを私は知っています。
その楽しさ、豊かさを皆さんにも味わっていただければと思っています。

キャンピングカーなら、"大切な人とのつながり"が生まれます。
私がキャンピングカーを扱う理由の一つは、この"人とのつながり"が持てることです。

人とつながっていること、愛する人と楽しい時間を過ごすことがいかに大切か。

私は痛切に感じています。
その思いの根源は、私の幼少期の体験にさかのぼります…。

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■ひとりの寂しさから知った「家族との時間の大切さ」  【幼少期~学生時代】 

●本当の母親が誰なのか、わからなかった幼少期
実は私は5歳頃まで、自分の本当の母親が誰なのかわかりませんでした。
そんな普通ではない環境で育ちました。

不幸を自慢するわけではありません。
客観的に考えて、それが今のノースライフを作り上げていると思うので、ここでお話しします。

私の母は、若くして私を産みましたが、私の父とは別れたため、女手一つで私を育てなければなりませんでした。
生後しばらくは、私は親戚の家などを転々とすることとなったようです。そのため、誰が母親なのかわからない生活が続いたのです。
5歳のある日、札幌のデパートの噴水のある場所に連れられて、一人の女の人を紹介されました。そして、「この人が本当のお母さんだよ」と言われました。それが実の母との対面でした。緑色の服を着た、背の高い人でした。「そうなのか…」と戸惑いの中、今まで母親だった人を振り返りながら、手を引かれて行ったことを今でも鮮明に覚えています。

●女手一つで育ててくれた母、そして、孤独との闘い
母は女手一つで私を育てなければなりませんでしたから、昼も夜も働き詰めです。
そのため、母と暮らし始めてからというもの、私は毎日ずっと一人ぼっちでした。今のようにテレビがあるわけではありませんし、お金がなかったので本も買えませんでした。空腹をこらえながら、一人、孤独の時間と向き合っていたのです。
「誰か人とのつながりを持ちたい」
その思いは強烈でした。

ただ、そんなさびしい孤独な生活にも、今から思えば、よいこともありました。
一人で何もすることがなかったため、機械で遊ぶことを覚えました。当時、米軍の廃棄機材が安く手に入りましたから、それを組み合わせて無線機などを作っていたのです。電流や周波数の計算もできるようになりましたし、小学生なのに計算に"√"も使っていました。この頃に得た機械や電気の知識が、後にキャンピングカーの設計に役立つとは、当時は夢にも思っていませんでしたが。

●生きていくうえで本当に必要なものは、人とのつながり
そんな孤独な毎日から、ひとつ体得したことがあります。

生きていくうえで本当に必要なもの。物質面では飢えを満たす食料だけあれば十分です。しかし本当に必要なのは、感情面、つまり人とのつながりから得られる幸福感だと知りました。

私が人とのつながりを重視してキャンピングカー事業を行うのには、こうした背景があるのです。

●自分で商売するということと、母の期待
さて、夜もホステスとして働いていた母ですが、現在のように華やかなイメージではありません。帰り道では、薪を集めて歩く。そんな生活でした。

私が5年生になった頃、母は美容室を開業しました。それまで働きづめだったので、美容師の資格はとれませんでしたから、美容師を雇って経営者となる道を選んだのです。
それは、私と一緒に過ごしたいという思いからでした。自宅で開業するなら、一緒に過ごす時間が長くなります。

実はそれまでは学校の成績もあまりよくなかった私ですが、母と一緒に暮らせるようになってからは、成績が急に良くなりました。先生の話も聞くようになりましたし(笑)
心が落ち着いたのでしょうね。

しかし、一方では大変な面もありました。それは、商売を営むという現実を間近で見ることです。美容室は夜の10時まで営業していましたから、疲れ切った母の代わりにその日の売上を数えるのは私の仕事でした。
お客さんが入らなければ、売上はゼロなわけです。
それは子ども心にも不安でした。

母は、私には大変厳しい人でした。実は3年ほど前に亡くなりましたが、実際、私は母に一度もほめられたことはありませんでした。私がどんなに頑張っても、母の要求はさらに高くなっていきます。
今思うと、私は母にほめてもらうことを目標に生きてきたかもしれません。

「自分にしかできないことをしなさい」

母はよく口にしていました。
その言葉が、私の生き方に大きく影響していくのです。

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■自分にしかできないことをやる、それが私の使命  【就職~創業まで】 

●中学から高校時代に直面するひとつのテーマとは
母が美容院を開業してからは、成績もよくなり、学級、学年の代表として活動するようになりました。その一方、女の子にモテたい一心でバンド活動を開始。当時はギターを持って歩いているだけでも警察に捕まる時代でしたので、先生にも母にも怒られてはいましたが、充実した中学~高校時代を過ごしました。

この頃から、バンド仲間とよく話題にしていた一つのテーマがあります。
それは、
「僕たちは、どこから来て、どこへ向かうのだろう」
という漠然とした疑問です。
そもそも、小さい頃から考えていたことでもありました。
「母はどうしてこんなに苦労しなければならないのだろう。僕は何のために生まれてきて、こんなに頑張らなければならないのだろう」と。
こうした疑問が、その後の人生における重要なテーマとなっていくのでした。

●妥協できず、就職しなかった自分
「僕たちは、どこから来て、どこへ向かうのか」というテーマを抱えたまま、私は青森の弘前大学 経済学部に進学しました。そこでもバンド活動を続けていたので、たくさんの女子大に呼ばれて出かけました。そんな青春時代を謳歌していました。

あっという間の大学生活。ついに就職を考えなければならない時期がやってきます。
経済学部からは、名の知れた大手企業への就職が可能でした。
しかし、ここでも例のテーマが頭をもたげます。
「僕たちは、どこから来て、どこへ向かうのだろう」
「自分は何をするために生まれてきたのか」

当時、青森県の弘前では、四年制大学は弘前大学だけでしたから、地元の方からの期待は非常に高いものでした。また、当時の国立大学は授業料が安く、いただいた奨学金の方が高いため、お金をもらいながら大学に通っているようなものでした。
大きな期待を受け、金銭的な援助も受けながら、自分のやりたいことがわからないまま就職してもよいのだろうか。

私が出した答えは「妥協はしない」。すなわち、就職はしないということでした。

●僕が僕でなくてもかまわない苦痛
無職のまま北海道へ戻りましたが、さすがに生活しなければならないため、働く必要がありました。自宅で子どもを集めて塾を始めましたが、家賃と光熱費を稼ぐので精一杯です。

ほどなくして、学生時代からお付き合いしていた女性が北海道にやってくることとなりました。私は押しかけられたと記憶していますが、彼女に言わせると私が呼び寄せたとのこと。まあとにかく、私たちは結婚することとなりました。そうなるとますます生活費を稼がなければなりません。

信頼できる叔父さんに相談したところ、「これから仕事を覚えるなら、まずは営業を覚えなさい」とのアドバイスを受け、トヨタの営業マンとして働くことにしました。
一日30軒~50軒、お客様を尋ね、営業、販売するという仕事でした。最初はなかなか売れません。しかし私もサボるタイプではありませんでしたから、せっせと回りました。当時はモータリゼーション真っ只中だったこともあり、まじめにやっていれば「買いたい」という人は必ず現れます。しばらく経つと、私はその営業所でトップクラスに入るようになり、表彰もされるようになりました。そして、それまで見たこともないようなお金を手にすることができるようになりました。

しかし、そんな順調そうに見える仕事も、私にとってはつらいものでしかありませんでした。
仕事の内容は、カタログを持ち歩き、欲しいという人に説明して、売るだけです。
特に何を学ぶわけでもありません。
「僕が僕でなくてもかまわない」 「僕でなくてもこの仕事はできる」
そこに苦痛を感じていたのです。

ただ、いずれは自分で何かしようと考えていましたから、独立するために会社で学ぶことはたくさんありました。経理、サポート、サービス、…ノートをたくさん買い込んで書き込んでおりました。

入社してから3年後、ついに独立を決断しました。上司に話すと、「たった3年で独立してどうする?おかしなやつだな」と怒られましたが、協力店として認めてもらい、中古車を回してくれることとなりました。ついに自分で商売を始めることになったのです。

●独立、そしてキャンピングカーのある暮らし
もちろん、独立することに対して、周りからは反対されました。
さらに、私が当時300万円もするコンピュータを購入したことに対しては、大変な非難を浴びました。

なぜコンピュータが必要だったか。

私は当時、学校の先生やお医者さんに対して、絶対に迷惑のかからないよい車を売るというスタイルで営業しておりました。特に広告宣伝するわけでもなく、紹介営業という形をとっていましたので、「約束は絶対に守る(=約束は忘れない。できない約束はしない)」ことが何より大切だったのです。
絶対に約束を忘れないしくみ、そして、一人で効率的に動けるしくみが必要でした。
そのために、コンピュータで管理する必要があったのです。

そんなしくみも功を奏し、独立後の商売はすぐに軌道に乗りました。
暮らしも楽になり、本気で働き本気で遊ぶ暮らしが始まりました。
夏はテニスやヨット、ダイビング、冬はスキーに出かけます。
子どもたちが一緒に遊べるようになってからは、自作のキャンピングカーで各地を旅して回り、家族の絆を強めていきました。

●再び募る、僕が僕でなくてもかまわない思い
そんな充実した毎日でしたが、いつしかあの思いが湧いてきます。

「自分にしかできないことをしたい」
「これは僕でなくてもできるのではないか」
「自分がやる意味はない」

気がつくと、一人で始めた事業も、十数人の社員さんを抱えるまでに成長していました。
しかし、学生時代から持ち続けていた「妥協したくない」という思いは膨らんでいく一方でした。

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■自分にしかできないことを見つける  【キャンピングカーのメーカーとして】 

●くすぶり続ける毎日から、一路アメリカへ。
  そこで見つけた"日本にはないもの"
38歳の頃、日本よりも進んだ唯一の国、アメリカを見てみたいという欲求にかられ、私は、アメリカ東海岸を訪れました。
もちろん、観光ではありません。日本にはない何か、自分にしかできない何かを見つけたかったのです。

アメリカではいろいろなものを目にしましたが、ほとんどのものが日本でも見かけるものでした。しかし、唯一、日本にはないものがそこにはあったのです。
それがキャンピングカーでした。

アメリカでは、郊外や田舎に暮らす人が、街へ遊びに出かけるときにキャンピングカーを使うのです。かなりの数を目にして驚きました。私が安く家族旅行をしたいと考え、改造したキャンピングカーと同じようなものが、たくさん走っていたのです。「似たようなことを考えるものだな」と思いました。

さて、日本に帰ってきて、売り物の中古車をキャンピングカーに改造してみたら、売ってくれという友達が何人か出てきました。
当時、キャンピングカーと言っても知っている人はほとんどいませんでした。100人に聞いてもほぼ100人、知らないと答えていた時代です。
それでも欲しいと言われるので、「これは商品として扱ってみようか」と思い始めたのです。

●キャンピングカーでなければならない2つめの理由
  "自分にしかできないこと"
キャンピングカーは、欧米から日本に入ってくる最後のライフスタイルになるかもしれない。

そんな将来性をキャンピングカーに感じるとともに、「キャンピングカーを取り扱うこと」こそ、自分にしかできない事業だと私は確信しました。
そして、ついに1992年、キャンピングカー販売に方向転換することを社員さんに伝えました。
その考えに賛同できない社員さんは辞め、当時十数人いた従業員は数人に減りました。
しかし、私はそれでもかまわなかったのです。

「自分にしかできないことをする」
長年のテーマを実現する日が、少しずつ近づいてきていると信じていたからです。

●英国からの輸入販売。しかしそれは
 「自分にしかできないこと」ではなかった
溝渕 邦夫
いち早くキャンピングカーに着目し、草分け的に、英国から何台か輸入して販売する。
最初は障壁もありました。ナンバー登録をするのも難しく、うちの社員さんと一生懸命頑張りました。その甲斐あって、企業の社長さんが購入してくれたり、福利厚生の一環で購入してくれる法人も出てきました。私は手ごたえを感じていました。

しかし本当の問題は別にありました。
銀行から融資を受け、輸入事業を行っていたのですが、突然、銀行側からお金を返してくれと言われました。何かおかしいとは思いました。しかしまさか銀行の内部がおかしくなっているとは夢にも思いませんでした。そう、バブル崩壊で銀行が破綻していたのです。

そして、もう一つの問題、それは競合他社の参入でした。
商売になりそうだと判断した他社が、商社と組んで、100台規模で輸入し販売を開始したのです。
お金を持っている会社が真似をし始めたのを見て思い知りました。
キャンピングカーの輸入販売は、「自分にしかできないこと」ではなかったのです。

かくして日本はバブル崩壊の局面を迎え、そのあおりを受けた競合他社は撤退していきました。
弊社の業績も急激に悪化。厳しい現実を目の当たりにしていました。
キャンピングカー事業を継続するかどうか、私は岐路に立たされていました。
キャンピングカーをやり続けることが私にとっての成功だと考えていましたから、他社が撤退する中、やめたくないという思いはありました。

●本当に自分たちにしかできないこと
私は考えました。
自分にしかできないことをやりたい、そう思い続けていたのに、何一つ実現していない。

そのうちに気づいたのです。

自分に備わった才能を生かして、他の人ができないことをする。
創造性を生かして、ほかの人にお役立ちをする。
それが仕事というものです。
自分に備わった才能とは何か。
自分は子どもの頃から電気や機械が異様に得意でした。
コンピュータを使ってデザインすることもお手のものです。

その能力を使って、エレクトロニクスを活用した機械でキャンピングカーを作ること。
コンピュータを使ってデザイン、設計すること。

それが本当に自分にしかできないことだと、ついに気づいたのです。

ただし、私にできるのは設計だけです。
社員さんたちがいるから、製造まで実現できるのです。

ほかの人が真似できないかどうか、考えてみました。
ほかの会社で楽勝でできるところがあるとすれば、そこはキャンピングカーには手を出さないでしょう。もっと大量生産が可能で、原価率の低いものを選ぶはずです。キャンピングカーづくりには木工作業が必要ですから、ここには手間と職人技が必要なのです。

私はキャンピングカーの事業をメーカーとしてやり続けることを決断しました。

命の目的が見えた瞬間です。

すると、すべてがうまく動き出したのです。

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■ノースライフのキャンピングカーはここが違う  【ノースライフの挑戦】 

現在、私たちは東北・北海道では数少ないキャンピングカーメーカーとして、成長を続けています。そんな私たちのこだわりを少しお話させていただきます。

●ノースライフのキャンピングカーの強みとは
 □ 北海道で作るから、寒さ、暑さに強い車です
北海道人らしく、断熱をきちんとしているキャンピングカーです。寒さに強いということは、暑さに強いのです。
また、細かいところにも気をつかっています。例えば排水タンクや給水タンクが室外に置いてある車だと、一度凍ってしまうと春まで解けません。ノースライフのキャンピングカーなら、タンクが室内にあるので、一度凍っても室内を暖めることで解かすことができます。
DAICHI
 □ 素材にこだわっています
せっかく購入していただいたキャンピングカーですから、できるだけ長く使っていただきたいと私たちは願っています。ですから、素材をけちっていません。見えないところの素材もよいものを使っています。

 □ 職人がプライドを持って作っています
海外で安い労働力を使えば、キャンピングカーを安く作れるかもしれません。
でも、もしも不当に扱われ搾取されている人たちに作らせることが「安く作る」ことだとしたら、私はそんなものはいりません。
虐げられた人たちが真面目にものを作るとは、私には思えないのです。どこか見えないところで手を抜くでしょう。
北海道という恵まれた土地で、熱意とプライドを持った北海道の人間が作ること。それが大切だと私は信じています。

●ノースライフのスタッフが、使命を感じて生き生きと働ける環境を作る
スタッフ
ノースライフのスタッフには、個性的な人がそろっています。
それはスタッフの一人一人がパワーを持っているということでもあります。

今、社内勉強会を自由参加で行っています。最初の頃は参加者は数人でしたが、今は全員が参加するようになり、パートの方まで参加してくれています。

その勉強会では、社員さん同士で、相手のどんなところに才能を感じるかを伝え合います。
難しい言葉で言えば、「明徳を明らかにすれば 道 おのずから開く」ということです。
意外に自分の才能は気づかないものです。それをはっきりさせて、世の中にお役立ちをする。
スタッフ一人一人が自分の才能を理解することで、よい仕事ができていくと考えています。
方針手帳
お客様から感謝のおたよりをいただくと、営業のスタッフはもちろん、工場で働くスタッフも本当に喜びます。「人に喜んでいただくことがうれしい」と感じられることは、まっとうな人間なのだと思います。そういうスタッフが使命を感じてキャンピングカーを作ることが、ノースライフの強みだと考えています。

現在、3か所の工場で分散して製造していますが、今年の年末から自社工場を新しく建設を開始し、1箇所に集約させていきます。
実は工場を借りるのと、自社で工場を持つことは、費用的にはそれほど変わりません。
私が大事に思うことは、社員社員さんと毎日顔を合わせて一緒に仕事をすることなのです。
作業が効率化することも考えれば、手堅いやり方ですし、飛躍もできるのです。第一、楽しいです。

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■ノースライフは何を売るのか 

ノースライフはキャンピングカーを売っています。
しかし、キャンピングカーは単なる道具に過ぎません。
ノースライフが売っているのは、むしろ、愛する人と同じ時間を過ごすという価値観であり、ライフスタイルです。

●キャンピングカーで実現する、自由気ままに創造できる旅
何度も言うようですが、キャンピングカーはお金持ちではない人が旅を楽しむための道具です。本当にキャンプそのものがしたいなら、キャンピングカーは不要です。
DVD

キャンピングカーはたまにしか使わないから、レンタカーでいい、という方もいらっしゃいます。でも、1泊で4万~5万円かかります。それならホテルに泊まったほうがよいでしょう。

キャンピングカーでの旅には、こんな魅力があります。
1.予定を組まなくていい
 ホテルの予約も不要です。思い立ったときに旅立つことができます。
2.人から強制されない
 誰かの都合に左右されません。
 パックツアーの時間割や、ホテルの都合にわずらわされることもありません。
3.無駄なお金を使わなくていい
 自分でご飯を作ることができます。ホテルの豪華料理を毎回食べる必要はありません。

●本当のキャンピングカーの楽しみ方を広めたい溝渕 邦夫
例えば、家族で小樽までキャンピングカーで遊びに行ったとします。
昼間、観光したり、風景を見たりしたあと、夕方になったら海辺でジンギスカン。ちょっとさびしいときは外食もよいですね。車を駐車場に置いて、街へ行き、どこかでおいしいものを食べる。
そして車に帰り、日帰り温泉にでも行ってゆっくりしてから心地よい場所へ移り、車で眠る。

こんなキャンピングカーの楽しみ方を、一人でも多くの方に知っていただきたい。そう私は願っています。

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溝渕 邦夫 長い手紙を最後までお読みいただき、ありがとうございました。

私にとっての成功とは、キャンピングカーを販売して儲けることではありません。
キャンピングカーのある暮らしを提案すること。そして、この事業をやり続けることです。

少しずつでも、皆さまの町で、キャンピングカーで旅する風景が増えていくと、私はうれしい限りです。

株式会社ノースライフ 溝渕 邦夫

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